2018年7月27日金曜日

[雑記]育成する重さと結局は他人という割り切り


感謝や敬意を伝える立場?にある育成年代の指導者(教育者)(育成者)として、伝える意志を持つとするなら、自らがそういう人間性を持っていないといけない。でも、その人間性を自分で点検できるわけではない。指導者として、伝える意志を持つことが必要なのか。しかし、それを持つから選手たちに余計な負担をかけていないか。


試合のためにできることをやる、そういう生活。何か本気で取り組むための犠牲。そんな、フットボールしか知らない人生はどうだろう。他ごとをやることは、フットボールに繋がっていることばかり。色々と興味を持って、色々とやってみること。日本人は練習は上手いけど試合が下手と言われたことがある。試合って大きな大会であればあるほど意義がでかいように感じるけど、学校にいるときと同じように時間は浪費しているんだよね。


指導者が入れることができるのは、チームという単位の中の話。チームの活動中におけるメンタリティの変化を促すことはできるかもしれない。でも生活にまで影響を与えることは範疇の外。選手の人格は、やはり家庭や国の環境で形成されている。指導者っていう、フットボールをきちんと伝える人の存在はもちろん重要だけど、フットボールの向上は国という枠でおさまっている感じもする。


ナチュラルに選手たちを育成することが、指導者がすること。ナチュラルだけど、一つの軸やルールから逸れないように見張る。それぞれの選手たちがモノにして行くプレーを、指導者から評価していくと選手たちも同じように評価する。フットボールを知っている人、それが指導者になっている図式だから育成の選手たちには影響を与える。